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忠烈武士道・・現代人よ、安易に武士道を標榜するなかれ!

福島:二本松少年隊: 戊辰戦争(明治維新)二本松の激戦において、二本松藩兵の大半が西軍との戦いに参戦したため、霞ヶ城に残るものは、老幼婦女子と藩主侍臣として残るわずかの老臣のみであった。この城兵不足が少年たち、そして隠居老人までも出陣するという原因ともなったのである。特に少年たちの出陣嘆願は強まるばかりで、砲術指南木村銃太郎の門下生たちも全員、銃太郎に出陣許可を繰り返し懇願したといわれている。戦力は仙台藩などの応援を加えて約1.000人、それに対して西軍は約7.000人、徹底抗戦の末、1868年7月29日正午前、ついに二本松城は炎上・落城したのである。
 城内に残る家老丹羽一学、大城代内藤四郎兵衛らは最期の時と城中に火を放ち、討死あるいは自刃して果てた。落城の運命は皆が予想していた事であったが、二本松藩が奥羽越列藩同盟の信義を貫くために行った玉砕戦は壮絶な最期であった。戦死者数は、「戦死姓名簿」によると、二本松藩の戦死者337人、また応援他藩の戦死者は200人超といわれている。
12歳から17歳の二本松少年隊の子どもたちは、義に殉じる武士道精神によって最後まで戦いぬき、愛する郷土そして家族を守るため、激戦の末にあたら幼い命を散らしたのであった。
あくまでも義に殉じた少年隊士たちの供養塔は、二本松少年隊隊長の木村銃太郎、副隊長の二階堂衛守とともに、旧二本松藩主丹羽家菩提所の大隣寺境内に建立されている。
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